22年前の今日、1996年11月25日(アメリカ西海岸現地時間、日本時間11月26日)は、OS X誕生のための種が蒔かれた日といえそうです。というのは、NeXT社の中級クラスのマネージャーが、当時のApple社と、NeXTが開発していたOpenStepオペレーティングシステムのライセンシングについて連絡を取った日だったのです。
NeXTがAppleと連絡を取り、交渉に入った日。Appleの大躍進のきっかけになった
22年前の今日にNeXT社のGarrett L. Rice氏が当時のAppleのエレン・ハンコック(Ellen Hancock)CTOと連絡をとったのですが、それが今日まで続く長いプロセスの第一歩となりました。そしてその第一歩がその後AppleがNeXTを買収することにつながり、OS Xが誕生したのですが、そして何よりも大きかったのがスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)が自ら起業した会社に里帰りしたという重大な出来事を生み出したことでした。
Appleは次世代Mac OS開発プロジェクトCoplandが暗礁に乗り上げ、新しいOSが必要だった
AppleがNeXT社のライセンスについて考慮しだしたのは、当時のAppleのCoplandプロジェクトが失敗し暗礁に乗り上げていたからでした。次世代Mac OSとして期待されていたCoplandは、当時まだ50人ほどのMac開発者にしか配布されていないベータ版の状態だったのです。
1996年までに、Appleはとんでもない金額をCoplandの開発に注ぎ込んでいました。Appleは当時、支配的地位にあっという間にのし上がったWindows 95に対抗するために、何か新しい武器が必要だったのです。そしてAppleは何を血迷ったか、Mac OSをサードパーティのPCメーカーに向けてライセンス提供を始めるという誤った選択に出ますが、Apple自身が望んでいたような”魔法のエリクサー”のような効果は全くありませんでした。なぜなら、当時のMac OS System 7(日本での漢字Talk 7)は非常にバギーで不安定で、マルチタスクが実現できずシステム全体がよく落ちるなど、あまりにお粗末な完成度だったからです。
しかし、次世代Mac OSとして開発されていたCoplandはもっと惨憺たる状況でした。Coplandの失敗については、当ブログでも最近記事にして詳細に説明していますので、ご興味があればどうぞ。
Appleの当時のギル・アメリオ(Gil Amelio)CEOは、Macの熱狂的なフォロワー達に対して、1997年1月に行われるMacWorld Expoにて新しいOSを発表すると語ります。その頃、Apple社内では、OSを社内で自己開発するには限界があり、社外からOSを調達する作戦に切り替わりつつありました。
Beになるか、Beにならないか(To Be or not to Be)
Appleの1つのオプションとしては、かつてApple Computer社でMacintosh IIやMacintosh Portableの開発を担当した製品担当社長(President, Apple Products)で、スティーブ・ジョブズのApple離脱のキーマンとなりカリスマ的存在だったジャン・ルイ・ガセー(Jean-Louis Gassée)が、1990年に当時のAppleのジョン・スカリー(John Sculley)CEOとの確執によってAppleを離れた後に開発した”BeOS(ビーオーエス)”がありました。
BeOSは1995年10月に、キビキビと動くBeBoxという名のコンピュータと共に鮮烈デビューします。このBeOSはプログラミング言語の1つ、C++で書かれた初めての近代的なコンピュータOSで、優れたマルチメディア性能を大いに鼻にかけて宣伝されていました。
そして、なんといってもこのBeOSの特徴は均整的なマルチプロセッシング、プリエンプティブなマルチタスク、マルチスレッディングの普遍的に実現できていることで、更にBFS(BeOS File System)として知られる独自の64bitのジャーナリングファイルシステムをも備えていました。そのスムーズな動きに当時のMacユーザは衝撃を受けたともいわれています。
ジャン・ルイ・ガセー氏はかつて、「(AppleがBeOSを買わなかったことについて)神に感謝しているよ。なぜなら私はAppleのマネジメントが嫌いだったからね」と語ったことがありましたが、それは明らかに強がりとしか思えません。しかし当時は多くの人々(皮肉にもその中にはガセー氏も含まれています)はこのBeOSこそが正にAppleにピッタリだと考えていたのです。なぜなら、元々Macの開発に携わっていたガセー氏の手によるBeOSは、Mac OSの特徴ともいえるすっきりして整頓されたデザイン哲学も持ち合わせていたからです。
1996年からBeOS社はApple社との買収交渉を始めますが、当時ガセー氏本人は買収金額には執着しないと語っていたにも関わらず、実際のところはかなりハードな、がめつい交渉を行っていたようです。Appleは当初5,000万ドル程度とBe社を見積もっていたのに対して、Be社はAppleに最初倍の1億ドルを要求しました。その後、BeOSはAppleが他に選択肢がないとみるや、その買収金額を4億ドルまで吊り上げたといわれています。それはBeOSへの投資家に2億ドルを支払わなければいけない事情があったからともいわれています。そんなわけで、AppleもすんなりとBeOSに決めるわけにはいかなくなりました。
NeXT steps(次のステップへ)
BeOSが値段をふっかけてきた中で、Appleにとってもう1つの現実的なオプションはNeXT社の買収でした。この会社はAppleを放逐されたスティーブ・ジョブズにとって、最も時間と精力を使っていた会社でした。当時ジョブズはPixarも持っていて、それで彼は既にビリオネアに名を連ねていたのにも関わらずです。NeXTはソフトウェアとハードウェアのどちらの開発も行っていました。しかしNeXT社は期待されていたほどのポテンシャルを発揮できないままでした。
そして途中でハードウェアビジネスを諦めざるを得なくなったNeXTは、1996年からソフトウェア開発一本に事業内容を絞ることにします。OpenStepが、NeXT社のNeXTSTEP OSのオープン版でした。オブジェクト指向で、UNIXベースのマルチタスクOSだったこのOpenStepが、AppleのOS Xの母となるOSとなり、それがその後現在まで脈々と続くmacOSに繋がることになります。
1996年11月に、ジョブズは前出のギル・アメリオCEOと再度面会し、話し合いを持ちます。ジョブズはその時、BeはAppleにとって正しい選択ではないと主張しました。そして22年前の11月25日、NeXT社のRice氏が、ジョブズがずっと狙っていた、AppleがOpenStepをMacに搭載するためのバージョンを獲得するためのオプションについて、Appleのエレン・ハンコックCTOに持ちかけるのです。
そして12月の初め頃、ジョブズはAppleの本部を訪れます。これはジョブズがAppleを放逐されてから初めてのApple訪問となりました。そこにはBeOSのジャン・ルイ・ガセーもいました。そこで2社によっていわゆる”比較プレゼン”が行われたのですが、Appleは当然BeOSを選択すると考えていたガセー氏は当日まで殆ど何も準備をしてこなかったのに対し、ジョブズは綿密かつ完璧な準備をしてプレゼンに臨みました。その結果、Apple社によるNeXT社の買収と、ジョブズのAppleへの復帰が決まりました。そしてこのことが、Appleが近年したベストな決定事項の1つとなったのです。
慢心して失敗したBeOS、その後は下降の一途を辿る。現在も血を受け継いだHaikuが細々と開発中
BeOSはAppleへの売却が失敗したことがあだとなり、その後下降の一途を辿ります。MacはNeXTSTEPをベースにした安定したOS Xを、そしてWindowsもWindows 2000、Windows XPという安定したマルチタスクで動作する評判の高いOSをリリースしたことから、人々はBeOSを選択するメリットを見いだせなかったのです。BeOSはその後日立製作所からBeOS搭載機なども販売されましたが商業的には失敗に終わり、最終的には2001年8月、Palm社に1,100万ドルという安値でPalm社に売却されます。
当時、ガセー氏はNeXT社のハードウェア(NeXT Cube等)の失敗を見て大したことがないと見くびったからか、当然AppleはBeOSを買収するものとすっかり信じきっていて、プレゼンで殆ど何も準備をしてこなかったという失態を犯します。その慢心が敗北を招いたのではないでしょうか。
ちなみにBeOSは開発陣に親日家が多かったからか、日本語版も早くから登場し、そして現在もBeOSの血を受け継いだ末裔、Haiku(俳句から来ていると思われる)がオープンソースOSとして細々と開発が続けられています。最近もサイトの記事が更新されていることから、まだまだプロジェクトは動いているとみていいかと思います。
記事は以上です。
(記事情報元:Cult of Mac)