Apple(アップル)に入社する前、ジョナサン・アイブ(Sir Jonathan Ive、Jony、以下ジョニー・アイブ)はロンドンにいた。当時彼は2つの選択肢に直面していた。1つはイギリスの会社のためにサニタリー製品をデザインするか、それともAppleでPowerBookのデザインをするかという選択肢に。
当時Appleは全く不調だった。そしてイギリス人のアイブにとっては、もしAppleの求めに応じれば、地球を半周して遠い遠いアメリカの西部に行って仕事をしなければならなかった。そんなわけでAppleからの要請に、アイブはかなり悩んだようだ。
しかしアイブは後者を選択した。Appleでのアイブのキャリアは、単にAppleデザインチームのRobert Runnerの顧問としてスタートした。1992年にジョニー・アイブは正式にAppleの正社員となった。ご存じの通り、その後の活躍はここから始まるわけだ。
その時、彼は25歳だった。
自信
ジョニー・アイブはAppleに入社した後、すぐにApple史上最悪の暗黒期を経験することになる。社の負債は山のように積み上がり、ほぼ破産寸前まで来ていたのだ。当時Wired誌はAppleに対して祈祷を始めたほどだ。
Ian ParkerがNew Yorkerに掲載したジョニー・アイブのインタビュー記事の中で、1997年にはApple入社後5年のアイブは既にAppleの工業デザインの責任者となっていたと書いてある。しかし当時の彼はきっと楽しくなかったに違いない。会社は絶境に瀕しており、絶望の雰囲気がApple内部にも蔓延しており、アイブもその空気にすっかりはまっていたようだ。
上のWiredのAppleへの祈祷(Pray)が表紙となった号が発行されてから1ヶ月後、Appleを追われて12年が経ったスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)が戻ってきた。ジョブズは早速アイブと会おうとした。
しかしすっかり自信をなくしていたアイブは最悪の事態を考え、辞表まで準備していた。ジョブズももともとは新たにデザイナーを迎える心づもりで、IBMのThinkPadのデザイナー、Richard Sapperさえ迎え入れる予定だった。そしてSapperもジョブズの誘いに興味を示していた。
もしジョブズとアイブが肩を並べて仕事をしなかったら。。それは恐らくテクノロジー業界で”最も残念な出来事”として語り継がれることになっただろう。
しかしRichard SapperはIBMを離れて当時は潰れかけの小企業だったAppleに入ることを拒み、ジョブズの誘いを断ってしまった。
当時のAppleのハードウェアエンジニアリング担当副社長Jon Rubinsteinも自らジョニー・アイブを慰留し、こう語りかけた。「会社は以前の勢いを取り戻すだろう。歴史を作ろうじゃないか!」
デザイン業界の伝奇的人物Hartmut Esslingerも顧問としてジョブズに対して、Appleが当時抱えていたデザインチームは非常に優秀だと助言した。もちろんその中にはアイブが含まれていた。
そんなわけで形勢は二転三転した。アイブはジョブズとの会談を経て自信を取り戻し、Appleに残る道を選んだ。そしてAppleの工業デザイン担当副社長になったのだ。
その時、彼は30歳だった。
魂
1998年にiMacがリリースされ、大成功を収め、Appleを救った。そしてAppleはスティーブ・ジョブズのリーダーシップのもと、3年間で黒字となるまで回復したのだ。アイブは引き続き彼のデザインチームを率いた。アイブの言葉を借りれば、「テクノロジーをもっとクールに」するチームを。2007年、初代iPhoneがリリースされる頃には、アイブはすっかりAppleのコアメンバーとして重要な位置にいた。
多くの会社では、製品デザインは開発段階での独立したプロセスにすぎない。しかしAppleではアイブとジョブズがいたおかげで、製品のデザインチームは製品の生産全体に渡って関与した。これによって、Appleの製品がデザイン的に消費者の目を釘付けにすることができたのだ。
2013年、iOSのソフトウェア開発担当上級副社長のスコット・フォーストール(Scott Forstall)がAppleを退職し、彼の職権が残ったメンバーに分配された。その時にアイブはハードウェアデザインを基本としながら、Appleのヒューマンインターフェイス(HI)の責任者となり、またソフトウェアユーザーインターフェイス(UI)デザインも担当するようになった。
その後、我々はiOS7とOS X Yosemiteでこれまでのスキューモーフィズムからフラットデザインへと変わったのを目の当たりにした。ジョブズが離れた後のAppleにおいて、彼は少しずつApple社の製品開発の魂ともいえるような人物となっていった。
その時、彼は46歳だった。
忍耐
現在Twitterのデザイン総監を勤めるMike Kruzeniskiが取材記事で、2008年〜2009年頃、ある会社がアイブをヘッドハンティングをしようとしたが、結果的にアイブは遠回しにその相手の申し出を断ったというエピソードを暴露した。
実際同様に彼をヘッドハントしようとした会社は少なくなく、全く珍しいことではない。面白いのは、その時のアイブの断った理由だ。アイブは「過去10年で彼は非常に精力を使ってAppleを自分のしたいことができる会社に変えてきたので私は辞めたくない、私はAppleでまだ始まったばかりだ」と言って断ったという。
その頃を回想すれば、AppleのiPodやiMacのデザインは既に非常に有名になっていて、iPhone 3GSも既に発売され、MacBookのアルミユニボディデザインも始まっていてそれは現在まで使われている。どの製品もとんでもなく大きい成功を収めたが、アイブはその全ての製品デザインを主導していたのだ。
言い換えれば、その頃にアイブが得た成功は既に十分なものだったといえる。しかしその全ては彼にとっては準備運動にすぎなかった。その前の10年は1998年で、それ以前に彼はAppleの全くの暗黒期の時に6年も会社に留まっていたのだ。
一人のデザイナーが、どうやって世界で最も影響力のある会社の中でその中心メンバーとなれたのだろう?その答えは、自信、魂、そして忍耐だ。
今日、Appleは既に後光がさすほどのテクノロジー企業の巨頭となったが、その会社がこの男のために、CDO(チーフ・デザイン・オフィサー)という新しい職位まで用意した。
その時、彼は48歳だった。
記事は以上。
(記事情報元:iFanr、記事は左記の翻訳記事)