初代iPhone開発秘話:Appleは”ダサい”プロトタイプをどうやって世界を変える製品に仕上げたか

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Appleが10年前の2007年6月29日に販売開始したiPhoneほど世界を変えたものはあるでしょうか?なかなかすぐには思い浮かばないと思います。しかしこの究極のスマートフォンは、いくつかのCAD設計とプロトタイプの変遷を経て誕生したものです。

氏が、その著書Jony Ive: The Genius Behind Apple’s Greatest Productsより、Cult of Macにその一部を披露しているので、その画像に注目しつつ要約してご紹介します。

初代iPhone-iPhone 2Gの最終に近いプロトタイプ

 

マルチタッチデバイスに特化したデザイン

上がジョニー・アイブが初めて描いたiPhoneのデザインです。真ん中と右はほぼその後のiPhone初代機そのもののデザインとなっています。一番左だけ、ちょっと違いますね。

当時、マルチタッチインターフェイスはまだまだAppleの幹部さえ殆ど見たことのないものでした。もともとMacのキーボードやマウス入力の代わりに採用が検討されたマルチタッチディスプレイの概念ですが、それをタブレットデバイスやスマートフォンに持ち込むという考えはまだまだ最先端でした。また当時のスマートフォンはスタイラスや感圧式のシングルタッチのインターフェイスしかなく、あとは効率的な入力としてはiPodのクリックホイールくらいしかアイデアがありませんでした。

上記のデザインについて、ジョニー・アイブは最初スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)は「これはクソだね(This is Shit)」と言われるのを避けるため、個人的にそのシステムも含め懇切丁寧にジョブズに説明したそうです。その結果、得られた言葉は「これは未来だ(This is Future)」でした。

こうしてジョブズの支持を得たジョニー・アイブは、Apple社内でもとびきり優秀なソフトウェアエンジニアと共に、iPhoneの開発に正式に取り組むことになったのです。

iPhoneのプロトタイプとして知られる「Model 035」

マルチタッチのシステムそのものは1982年にトロント大学(University of Tronto)で開発されており、最初の作動可能なマルチタッチシステムは1984年には世の中に登場していました。そう、あのスティーブ・ジョブズが初代Macintoshを発表した年です。しかし当時はこのテクノロジーは見向きもされず、90年代後期まで日の目を見ることはありませんでした。その時期にマルチタッチ入力パッドを実現したのは、オハイオ州デラウェアの小さい会社、FingerWorksでした。

2005年の初め頃、AppleはこのFingerWorksを密かに買収し、その製品を市場から回収しました。そしてこの買収の事実は、このFingerWorksの共同創業者2人がAppleのために発明特許を申請して表に出るまで、数年間伏せられました。

そしてApple社内ではマルチタッチで動作するデバイスのプロトタイプが製造されます。大きさは非常に大きく、あの白いiBookと同じようなプラスチックのボディを持った、今でいえば巨大iPad Proのような外観でした。これはApple内部では「Model 035」と呼ばれており、2004年3月17日には特許出願がなされています。このデバイスでは、カスタマイズされたMac用OS X(当時はまだiPhone OS、後のiOSは誕生していませんでした)が動作していました。

そしてこのタブレットデバイスのプロトタイプがどのようにスマートフォンのiPhoneに活かされることになったかについては議論を呼ぶところではありますが、iPhone発売後3年経った2010年に、All Things Dでスティーブ・ジョブズはこのマルチタッチディスプレイのアイデアはタブレットデバイスから始まったことを大衆向けに明かしています。そしてそれを6ヶ月で改善し、UIチームに投げたところ素晴らしいものができたので、わお、これは携帯電話にも使えるじゃないか!と考えてiPhoneに載せた、と語ったのです。

もっとスマートなスマートフォンへの挑戦とクエスト

また、Appleの幹部会議によってiPhoneがスタートした、という見方をする人もいます。

ソフトウェア(iOS含む)部門のトップだったスコット・フォーストール元SVP(シニア・ヴァイス・プレジデント、上級副社長)は、「私たちはこれまでの携帯電話が嫌いでした」と語ります。「当時私たちは折りたたみ携帯を使っていたのです。そして、タブレットのプロトタイプは作りましたが、これがポケットに入るサイズの小さいものにして果たしてそのタブレットに与えられたマルチタッチのパワーが活かせるかどうか、自問していました」。

会議の後、ジョブズとトニー・ファデル(Tony Fadell)元SVP、ジョン・ルーベンスタイン(Jon Rubenstein)元SVP、そしてフィル・シラー(Phil Schiller)SVPがジョニー・アイブのデザインスタジオに行き、上のModel 035プロトタイプのデモを見たそうです。彼らはジョニーのデモに驚かされましたが、逆にこれが携帯電話に使えるかどうかについて逆に不安も生まれてしまったそうです。

しかしこの不安は、Model 035プロトタイプのためだけに作られた小さなテストアプリによって打ち砕かれます。

「私たちは小さいリストをスクロールするアプリを作ったんです」とフォーストール氏は語ります。「これをポケットサイズにフィットさせたかったので、コーナーに連絡先を表示させるテストアプリを作りました。連絡先リストをスクロールできて、連絡先はタップすることができて、そうすると連絡先の情報がスライドして現れるのです。そして電話番号をタップすると、電話をかけることができます。もちろん、電話していると表示されるだけで実際には電話してませんが。そしてそれはもうただただすごかったんです。そして私たちは、タッチスクリーンをポケットに入れられるスマートフォンサイズにしても、この機能は完璧に動くということを認識したのです」。

しかしその過程は簡単なものではありませんでした。後にサムスンとの特許訴訟の際に、Appleの弁護士のHarold McElhinny氏は、iPhoneの開発はほぼ新しいハードウェアシステムを1から作るのと同じだったこと、また当時Appleは成功したコンピュータ企業であって、音楽企業でもありましたが、携帯電話市場はほぼ完全に巨人たち(当時はモトローラとノキア等)に独占された市場で、そこではAppleは全く無名だったため、その市場への挑戦には何も確実性がなく、リスクが大きかったことを説明しています。

2つのラインで平行して進んだiPhoneプロジェクト:P1とP2

Harold McElhinny氏は、スマートフォンの開発が失敗してしまうと会社そのものが終わってしまう可能性があることを懸念したことから、そのリスクを回避するために、Appleは2つのラインでスマートフォンを開発することにしたといいます。その2つのラインの名前は、iPhoneの極秘開発プロジェクトの”プロジェクト・パープル(Project Purple)”のPurpleの頭文字をとることにしたそうです。

1つはiPod Nanoをベースとしたプロジェクトで「P1」とされ、もう1つは上記のModel 035プロトタイプをベースにしたプロジェクトで「P2」と命名されました。

P1には、iPod部門のトップでiPodの父とも呼ばれるトニー・ファデル元SVPがトップで担当します。その開発はほぼファデルの部下の優秀なエンジニア、マット・ロジャース(Matt Rogers)とそのチームによって、極秘裏に進められました。当時Appleの屋台骨だったiPodの開発が通常に行われる中、別仕事として行われたとされています。

そして開発が始まって6ヶ月、iPod Nanoをベースにした、基本的にはクリックホイールを使ったUIによる「P1」の基礎が固まり、特許が出願されます。その発明者欄にはスティーブ・ジョブズやスコット・フォーストールの名前も併記されています。

しかし、このP1には制限が多すぎました。ダイヤルはできますが、文字は打てず、アプリを動かすこともできませんでした。

ファデル氏によれば、この「P1」は社内で熱い議論を呼んだそうです。というのも、画面が小さく、大半がクリックホイールに端末が占められてしまっていて、結局そこでアイデアがスタックしてしまったのです。ただ、やってみないよりやったほうがいいというのはあったようです。

結局この「P1」は開発開始後半年が経ったとき、スティーブ・ジョブズの命令によって終わりを迎えることになります。ジョブズは「これが我々の目指す唯一の道だ」として、P2の開発に集中するように指示します。

ファデルはそれでも、Model 035のような全面ディスプレイデバイスは誰も試したことがなく、成熟したiPodのインターフェイスの方が作りやすかったと主張します。またディスプレイを全面に採用することで、商業的には失敗したPalm Pilotの二の舞になるのが怖かったとしています。

2年後、ジョブズはMacWorldで初代iPhoneを発表するときに、クリックホイール付のアイデアについて、ジョークとしてこのP1の画像を公表しました。これは新しい電話を作る方法ではない、とジョブズはいい、観客は笑いました。しかしごく一部の事情を知るAppleの社員は、これは確かに電話として開発を検討されていたことを知っていたので、複雑な気持ちになったことでしょう。

新しいiPhone開発チームの結成

「P2」の開発に集中することが決定されてから、ジョニー・アイブは工業デザイン、トニー・ファデルはエンジニアリング、そしてMac OSの責任者だったスコット・フォーストールは全く新しいスマートフォンに適用される新しいオペレーティングシステム(後のiPhone OS、iOS)を担当することになりました。

そして社内から精鋭中の精鋭が、絶対に他に機密を漏らしてはならないという条件の下集められました。しかも、他の普通の仕事をこなしながらiPhone開発の仕事もしたのです。社外からもリクルートされた人間もいましたが、その人達はAppleの外には出られなくなりました。なぜ出られなくなったのか?それはApple本社に極秘の開発スペースがあったからです。。

極秘開発空間、パープル・ドーム(Purple Dorm)の中での出来事

チーム”Project Purple”はAppleのカリフォルニア州クパチーノにある本部(HQ、HeadQuarter)の建物の中のとある階のフロア全体を全て使って行われました。そこは社内では”パープル・ドーム(Purple Dorm、DormはDormitory、寮の略)”と呼ばれていたそうです。スコット・フォーストール氏によれば、そこに入るには少なくとも4回は社員証での認証が必要だったとされています。そして土日でも夜中でも、そこには人がいたそうです。そしてピザのにおいで充満していたそうです。

またパープル・ドームの最初のドアの前にはあの映画”ファイトクラブ(Fight Club)”の張り紙がされていたそうです。映画”ファイトクラブ”のルールは、そこを出たら絶対に他人にはファイトクラブの存在を知られてはいけないというものでした。そしてプロジェクト・パープルもまさに同じ性質のものだったからです。

ジョニー・アイブのiPhoneの工業デザインは、これまでと同様、iPhoneのストーリーと「感覚(フィーリング)」を大事にしたそうです。しかもそれは触ったときのフィジカルな感覚ではなく、それを見た時の知覚に訴えかける感覚を大事にしたということです。

そしてアイブはこの製品の最も大事なところはディスプレイ、ということを認識し、他の人もみな同意したそうです。そしてこのディスプレイが「マジカル」で「サプライズ」なものにするために、高いゴールを設定しました。

これがデザイナー、Chris Stringer氏のiPhoneの初期のスケッチ。かなり完成版のiPhoneに近い仕上がりになっていますね。ただ、製品版よりディスプレイは小さめになり、表側にもアルミ成形が出てきているデザインになっているのが違います。最終的にこのデザインは途中で破棄されました。

iPhoneのプロトタイプ:エクストルード(Extrudo)とサンドウィッチ(Sandwich)

ジョニー・アイブのチームは、2004年の終わり頃からiPhoneのデザインを開始します。それは、2つの全く異なったデザインから始まりました。

エクストルード(Extrudo)

1つはエクストルード(Extrudo=成形)と呼ばれたタイプで、上記のスケッチを描いたChris Stringerによって主導されました。iPod miniを基にしたデザインで、薄くチューブ上に成形されたアルミによってシャーシができているもので、更に表面に酸化皮膜を作ることで様々な色をつけることができました。

初期のCADデザインが以下の写真となります。

iPod miniを大量に製造することでApple社内にも成熟した技術があり、ジョニー・アイブとそのチームもこのデザインを気に入っていたといいます。ただ、iPhoneは電話のため、電波の出入りのためにプラスチックを導入する必要があり、そのことがExtrudoを基にしたiPhoneのデザインに非常に大きな問題をもたらしてしまいます。

そしてもう1つがサンドウィッチ(Sandwich)で、これはもう1人の優秀なデザイナーRichard Howarth氏によって名付けられたものです。ほとんどがプラスチックでできており、フロントパネルもプラスチック。背面の真ん中当たりに金属バンドがあり、ディスプレイはフロントでセンタリングされており、下にはメニューボタン(当時はホームボタンとは呼ばれていませんでした)、そして上に受話器のスピーカーが配置されている、今のiPhoneに通じるデザインでした。

ジョニー・アイブとそのチームはまずエクストルードを重点的にデザインを進め、アルミ成形をX軸を中心に行うタイプと、Y軸を中心に行うタイプの2種類をデザインします。しかし、すぐに大きな問題が表面化します。このデザインだと角が立ってしまい、電話として使おうとして耳に当てると、耳を傷つけてしまう可能性が出てきたのです。これはジョニー・アイブが最も嫌うものでした。

なお、これがエクストルードの初期のプロトタイプです。かなりiPod miniに似たデザインといえます。大成功したモデルなので、やはりそれを踏襲したかったのでしょう。

また、こんなプロトタイプ、「プロト399」もデザインされています。アルミとプラスチックの組み合わせですが、バージョンを重ねるたびにプラスチック部分が大きくなってきたそうです。

上記の通り、耳を傷つけてしまうという懸念から、角に丸みを持たせるために、プラスチックの導入が検討されました。そのことは、電波をよくするという目的も達成することができるものでした。iPhoneは3種類の電波の出入りがあることが決まっていました。Wi-FiとBluetoothと携帯電波(いわゆるラジオ電波)です。しかし最後のラジオ電波だけは、金属を通り抜けることができませんでした。というわけでプラスチックのキャップが検討されたというわけです。

下の初期のプロトタイプは、だいぶiPhoneに近づいてきた感じがします。背面の下側にプラスチックのキャップがありますが、それでもまだiPod miniと同様、筒状のアルミ成形によるシャーシとなっています。背面にはiPodの名前が刻印され、表面にはフェイクのアイコンが並んでいます。ちなみにデザイナー達は開発中のOSを見ることは許されていませんでした。

上記のエクストルードは、電波の問題で行き詰まりを見せ始めます。そのためにプラスチックの部品を導入するのですが、やはり金属で覆われているため、電波の強さを確保することが難しくなったのです。またデザイン面でも、スティーブ・ジョブズからの”待った”がかかります。正面に金属があるデザインは、ディスプレイを台無しにする、ディスプレイの延長線上にある感じがしない、とジョブズにツッコまれたジョニー・アイブは、顔が真っ赤になるくらい恥ずかしく感じたそうです。

というわけで、最終的に「エクストルード」のデザインは放棄され、そのチームはもう1つのデザイン、「サンドウィッチ」開発チームに合流することになります。

サンドウィッチ(Sandwich)

「サンドウィッチ」のデザインは、「エクストルード」に比べいくつかの利点がありました。そのうちの1つは最初から丸みを帯びたデザインだったため耳を傷つけないことでした。ただ、最初のデザインは大きくダサいものだったため、ジョニー・アイブとそのチームはまずデザインの”スリムダウン”から手をつけていくことにしました。

こちらが初期の「サンドウィッチ」のCADデザインです。このデザインは金属ベゼルをプラスチックで挟むというサンドウィッチ形式で、その後iPhone 4に活かされるデザインとなっています(見た目もiPhone 4にそっくりですよね)。

また、「サンドウィッチタイプ」にも、Appleを象徴する白いプラスチックのプロトタイプも作られました。背面にはiPodと刻印されています。また正面のホームボタンは当時はメニューボタンと呼ばれていて、MENUという文字が刻印されています。その点はそのまま商品にならなくてよかったですね。。

Appleのデザイナーが携帯電話として動作するための部品を全部詰め込んでみてフィットさせたデザインです。「サンドウィッチ」することには成功していますが、プロトタイプのデザインはどんどん分厚くなっていってしまいました。

番外編:ジョニー・フォン

実はiPhoneの開発段階には全く違うタイプのデザインが検討されたことがあります。

ブレインストーミングの後、ジョニー・アイブは当時Appleに在籍していた日本人デザイナー、西堀 晋(Shin Nishibori)に、ソニー(SONY)スタイルの予備的なデザインのヒントができないか尋ねます。アイブはその時、ソニーのコピーはしてはいけないが、いくつかの新鮮で、”ファン”なアイデアを採り入れられないか、とお願いしたそうです。

西堀晋は既に日本ではよく知られた若いデザイナーでした。2002年から10年間Appleに在籍し、ソニーや日本の要素を採り入れたデザインは、スティーブ・ジョブズもジョニー・アイブも、またAppleに在籍する他のデザイナーも、その日本のミニマリストの芸術美に賞賛を送っていました。

2006年2月と3月に、西堀氏はソニーの要素をいくつか採り入れた携帯電話のデザインをします。当時のデジタルアシスタント・Clieに採用されていたジョグホイールを採り入れています。そして西堀氏は何と背面にSONYのロゴまで入れています。。そう、JONYともじって。これはもちろんジョークです。

このテストデザインモデルは、Appleとサムスンの特許裁判で証拠として出されたことで明るみに出たものです。サムスン側が、このデザインを出してきてAppleのジョニー・アイブのデザインは自社で開発したものではなく、他社のデザインのコピーだったということを主張したのです(言いがかりに近いですよね)。しかしAppleの弁護士は裁判で、このアシンメトリーなデザインやソニースタイルのボタンやスイッチなどは実際のiPhoneには採用されなかったことを説明し、その主張を退けることに成功しています。

なお、この全体のサイズやボタンを少なくするというミニマリズムなデザインはその後のiPhoneデザインに影響を与えています。

「エクスクルード」と「サンドウィッチ」の初期プロトタイプの比較写真はこちらです。アイコンはダミーで、ホームボタンにはやはりMENUの文字が見えますね。

ジョニー・アイブとそのデザインチームは、カーブ・デザイン(曲面デザイン)も試したことがありました。このやり方はどうやらうまくいきそうでした。曲面を増やすことで、多くのテクノロジーを詰め込むことができるからです。Appleの新製品、例えばiMacやiPadなどもこの方法が用いられました。

また2種類の分離式のガラスを用いる方法も検討されました。上がディスプレイ、下がタッチパネル、というような。しかし問題は曲面ガラスを作るのは当時難しすぎました。

その後、Howarthは「エクストルード」デザインとの比較をしてみましたが、やはりエンジニアリングテストでも「サンドウィッチ」デザインの方が正しい方向だということが証明されていました。ただ、「サンドウィッチ」のプロトタイプでは悪い報告がされていました。プロトタイプが大きくて分厚すぎたのです。結局、満足できるデザインの中に彼らが詰め込みたいテクノロジーを入れることは無理だということがわかり、結局「サンドウィッチ」デザインも闇に葬られることになりました。

「私たちはアンテナについて知っていることが少なすぎたのです。スピーカーについても。そしてこれらのテクノロジーをどうやってまとめればいいかも、知っていることが少なすぎました」とAppleの元幹部は語ります。「できたとしても、人を惹きつけるようなモノにはならなかったのです」

設計のやり直し

袋小路に入ってしまったジョニー・アイブのデザインチームは、最初からやり直すことにしました。彼らは開発の初期段階で作った1つのプロトタイプを思い出します。それを選ばなかった原因は、「エクスクルード」と「サンドウィッチ」を選ぶことに決定したからでした。

その最初の頃に淘汰されたプロトタイプは、その後実際にリリースされた初代iPhoneと確かによく似ていました。ディスプレイの正面にはホームボタンしかなく、カーブのある背面とディスプレイがシームレスに結合し、まさに初代iPodのようでした。更に重要だったのは、このデザインはジョニー・アイブが提唱している”インフィニティ・プール(縁のないプール)”というデザインそのものだったのです。電源が入っていないとき、それは単なる漆黒のパネルですが、そこに電源が入ると、ディスプレイにはまるで魔法のように内側から映し出されてくるような。。

これこそまさに「ひらめいた!」という瞬間でした。

「私たちは以前見落としてしまっていたことを発見したんです」とStringerは語ります。「このプロトタイプには私たちは以前かなり時間をかけて、いくつもの細部に工夫を凝らしたんです。当時私たちはこれが最高のチョイスだと思っていました」。何も装飾がされていないiPhoneデザインが最終的に選ばれたとき、彼は心からほっとしたといいます。「それは私たちのデザインの中で最も美しいものでした。」正面には自社のAppleロゴも、製品名もありませんでした。「私たちのiPod開発経験が、もし非常に綺麗な初期デザインがあれば、それ以上余計なことはしなくてもいいということを教えてくれました。それ自身がそれそのものを代表していて、そしてそれがカルチャーのアイコンになるのです」

こうして、デザインは固まりました。

Appleの開発チームにはある習慣があります。ある一定の時間が経つと、初期にデザインしていた作品に立ち返り、そこで見落としてしまっていたよいところを再度探す、というものです。ジョニー・アイブがiPhone 4の代になった時に、前出のiPhone初代の開発でボツになった「サンドウィッチ」デザインを再度用いたのは、その典型的な例の1つといえるでしょう。

さて、あとは最も重要とされた機能、マルチタッチディスプレイです。しかし当時タッチデバイスとして主流だったPalm PilotやNewtonで用いられていたプラスチックの感圧ディスプレイではその機能は満足できませんでした。

そこで、静電ディスプレイの採用が検討されましたが、当時Appleはサプライヤーの中に静電ディスプレイを製造可能な工場を持っていませんでした。そんな中、台湾のTPKという小さい会社がイノベーティブな技術を持ってPOS静電ディスプレイを製造できることがわかりました。ただ、その生産量は非常に少ないものでした。

そこでスティーブ・ジョブズはこの工場と提携し、何枚製造できてもいいから、できあがったモノは全て買う、という契約を結びました。そこでTPKは1億ドルを投資してその生産キャパシティを飛躍的に増加させます。そして初代iPhoneに使われたディスプレイのうち、80%はTPKが製造したものとなり、同社の売上はあっという間に30億ドルまで達することになります。

その後、ディスプレイはプラスチック製からコーニングのゴリラガラス製に変更され、2007年5月に量産品が納品され、急ピッチで取り付けられます。本体を顔に近づけるとガラスとベゼルの間の隙間にヒゲが挟まる(当時のスタッフは休む間もなく、ヒゲを剃る暇もなくぼうぼうだったため)という問題も発生したそうですが、その問題もデザイナーの懸命な努力で解決されました。

2007年6月29日、初代iPhone発売

多くの人は、iPodの成功はAppleは運が非常によかっただけで、それ以降Appleにはそんなに運がいいことはないだろうと言っていました。そしてAppleが携帯電話市場に打って出た後、多くの人がiPhoneは成功しないだろうと予測しました。マイクロソフト(Microsoft)の前CEO、スティーブ・バルマー(Steve Balmer)でさえも、iPhoneは市場で定着できないだろうと言っていたのです。しかしiPhoneは大人気となり、Appleは更にiPhoneの世代を更新し、新機能を追加していきます。

初代iPhoneは2007年6月29日に販売開始となり、年末までに370万台を売りました。2008年の第一四半期では、iPhoneの販売台数はAppleのMacの販売台数を超えました。そして2008年末にはMacの販売台数の3倍となり、iPhoneの営業収入と利益はどんどんとうなぎ登りに上がっていきました。

2007年1月のMacWorldでiPhoneが発表されたとき、ジョブズはかつての古い友人、Alan Kayに参加してもらいました。ジョブズはKayとはかのXerox Parcで出会っていたのです。その後KayはAppleの社員となり、90年代にはAppleのATGチームで10年仕事をしました。1968年、Alan Kayはその時既にDynabookの構想を提案しており、「本のように、携帯に便利でインタラクティブ機能を持ったマルチメディアのパーソナルコンピュータ」としていました。

iPhoneがリリースされたその日、ジョブズはKayに、「Kay、君はどう思う?批評ができるレベルにまでいったかい?」と聞きました。なぜそのように聞いたかというと、25年前、Kayは初代Macintoshを「初めて批評するに値するコンピュータ」と評したからです。Kayはその質問を受けると、ちょっと考えた後、手の中のMoleskinのノートを持ち上げ、「最低でもディスプレイサイズを5×8インチくらいまでできたら、君は世界を支配できるだろうね」と答えたそうです。

そして、それからそれほど遠くない時期に、私たちはiPadの降臨を目の当たりにするのです。

だいぶ端折ったところもありますが、記事は以上です。時代を変えたデバイスが、いかに紆余曲折を経て誕生したのか、少しでも伝われば幸いです。

なお、この内容が描かれている本、Jony Ive: The Genius Behind Apple’s Greatest ProductsはAmazonで購入できます(英語ですが)。

(記事情報元:Cult of Mac

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