Appleがサンフランシスコの現地時間4月1日に40周年を迎え、本社には海賊旗があがっているという。
一部バズメディア系や内容の薄いサイトではその海賊旗をあげたというだけの内容しか伝えていないが、Appleの古くからのファンは海賊旗には意味があるのは当然ご存じだと思われるし、当ブログの読者の方には恐らくいちいちご説明する必要もないだろう。しかしもし本当に知らない方は、ぜひ英語題ではそのものズバリの”Pirates of Silicon Valley(邦題:バトル・オブ・シリコンバレー、ノア・ワイリー主演)”をぜひご覧あれ。スティーブ・ジョブズ本人も認める、ジョブズとそのライバル、ビル・ゲイツの戦いを描いた素晴らしい伝記映画だ。
Appleは40周年を迎えるにあたり、3月22日のiPhone SE/iPad Pro 9.7インチモデルの新製品発表スペシャルイベントで、公式に40周年の動画を公開した。
さて他にも多くのメディアがAppleの軌跡やスティーブ・ジョブズの功績(或いは功罪)について記事にするだろうと思われるので、当ブログでは割愛させていただき、中国のメディアiFanrがまとめていた「スティーブ・ジョブズ以外にAppleに多大な影響を与えた5人」というある意味海賊旗をあげているような記事の内容を意訳も混ぜつつ紹介したい。当ブログも、常にAppleに対しても海賊でいたいと思っている(脱獄もしているし)。
パーソナルコンピュータからデジタルミュージックまで、スマートフォンからモバイルインターネットまで。。この40年、人々のサイエンス・テクノロジーへの渇望の相当な一部分はAppleによってもたらされた。
会社のCEOが壇上に立って製品の紹介をし、製品のために数時間の広告を打ち、それを消費者が娯楽プログラムとして見る。。スティーブ・ジョブズとアップルがホットなキーワードになった後、こんな非常識なことが常識になってしまった。4月1日はAppleの40周年記念日。我々はあの”現実歪曲空間”を使って全てを変えたあの男の話は今日はせず、その他の5人のAppleの歴史上重要な人物についてご紹介したい。
巨額の資金を提供したエンジェル投資家
マイク・マークラ、1977年〜1997年在籍。Appleのエグゼクティヴ、エンジェル投資家、そしてジョブズのビジネスの先生でもあった。
当時のAppleにとって、マークラは創業者であり、投資者であり、開発スタッフであり、製品マネージャーでもあった。そして当時のジョブズにとってはマークラはビジネスについて彼を啓蒙してくれた先生だった。
マークラは25万ドルという資金を出してAppleの30%の株を持ち、二人のスティーブがガレージで起業したプロジェクトを、本物のしっかりとした”コンピュータの会社”に育て上げた。駆け出しだった二人のスティーブがまだまだビジネス経験に欠けていることを深く知っていたマークラは、ともかく会社に頼りがいがあるCEOを入れることを強く要求した。またジョブズがMacintoshのプロジェクトをキャンセルしてLisaに切り替えようとしたときに、マークラはMacintoshを守り切った。その後のMacintoshの成功が、マークラの決定が正しかったことを証明している。Apple IIの開発段階では、マークラは最初期のソフトウェアコードを書いたり、製品の検査員の役割も果たしていた。
1985年、マークラはその他のエグゼクティヴと共にジョブズをAppleから事実上追放した。1997年ジョブズがAppleに戻ってくるときに、マークラは自らAppleを離れた。彼が持っていた700万株は、AppleのIPO当日に彼に2億米ドルの資本財産をもたらした。
アイデアを製品にした巨匠
スティーブ・ウォズニアック、1976年〜1985年在籍。ハッカー、ギーク、そしてテクノロジー界やエンジニアリング界では大先生だ。
ウォズニアック(通称ウォズ)はエンジニアの家系に産まれた。父親はロッキードのミサイル部門に所属するエンジニアだった。ウォズは小さい頃からエレクトロニクス分野での天賦を発揮し、テクノロジー関連の賞を受賞している。成人後、プログラム言語”FORTRAN(フォートラン)”を習得することでコンピュータに触れ、コンピュータデザインという大きな入り口に足を踏み入れた。
当初、ウォズはAppleのアイデアに全く惹かれなかったという。なぜならその試みは絶対失敗すると思われたからだ。しかし最終的にはもう一人のスティーブ、スティーブ・ジョブズに説得され、創業者のメンバーに入ったのだった。
70年代、ウォズが発明し開発・製作までほぼウォズ一人で完成させた、世界で最初にリリースされたパーソナルコンピュータといわれるApple I(上の写真)。これがAppleの最初の製品だった。ちなみにかつてApple Iがよくその価値のわかっていない持ち主がゴミ置き場に投げ捨て、ゴミ処理場がこれを発見してコレクター市場に持ち込んで値段を聞いたところ、なんと20万米ドルの価値があるといわれたという。
Apple Iを完成させた後、ウォズはApple IIを設計しているときにジョブズとは方向の違いによる確執が生まれていた。なぜなら二人はコンピュータに対して違う考え方を持っていて、二人とも自分の考えを曲げないタイプだったからだ。そんなわけで二人の関係はぎくしゃくした。しかしそんな中でも、マークラの投資のおかげでなんとかApple IIが生み出され、そして脅威のセールスとなったのだ。
1981年の飛行機事故の後、ウォズは大学に戻って自身の学業を修了させたいと考え、少しずつAppleの仕事から離れていった。そして1985年、ウォズは二人のAppleの同僚と共に、自分の会社を立ち上げた。
Appleの製品を売れるようにした顧問
レジス・マッケンナ、1983年〜1988年在籍。PR(パブリック・リレーションズ)のプロで、ジョブズの営業活動の先生。
当初、マッケンナはAppleに顧問として入った。1976年、Appleが設立されて間もない頃、マッケンナはジョブズとウォズにドン・バレンタインを紹介した。このバレンタインは後にAppleの最初期の投資者の一人となる。マッケンナはその後Apple IIのマーケティングの計画策定を行い、また今では誰もが知っているあの”一口かじられたリンゴ”のロゴマークをデザインした。
1983年、マッケンナはAppleのエグゼクティヴとなり、1988年に退職した。ただマッケンナはAppleを去って数年間は、彼自身の会社とAppleの間でビジネス提携関係は結んでいた。マッケンナ個人とAppleとの関係は更に長く続き、2010年のiPhone 4の”アンテナゲート”問題が勃発しAppleが世論の批判に晒されたとき、マッケンナは自らこの問題のPR的な解決方法を考えつき、そして最終的には”大逆転”による解決の功労者となった(当然ながら、その実現のためには現実歪曲空間を持っているジョブズがいなければできなかったが)。
ジョブズを追い出した”砂糖水売り”
ジョン・スカリー、1983年〜1993年在籍。前ペプシ・コーラのCEOで、営業のプロ。
当時ジョブズがスカリーをペプシから引き抜いてAppleに入れた時の殺し文句は、誰でも知っているこの言葉だ。
あなたは今後半生砂糖水を売り続けたいか、それとも僕と一緒に世界を変えたいか?
スカリーは世界を変える方を選択した。スカリーが加入した頃のAppleはいわゆる高度成長期で、店の時と地の利を手に入れていたと言っても過言ではなく、スカリーが営業のトップになってからAppleの売上げは8億ドルから一気に80億ドルと10倍にも膨れあがった。ジョブズとスカリーが二人でAppleのトップを務めた”蜜月期”には、同社はMacintoshのためにあの伝説の”1984″のCMも制作している。
しかしスカリーとジョブズはやはり最終的にはタイプの違う人だった。スカリーは優秀な伝統的な営業が得意な人材で、ジョブズのビジネス理念の中には”偉大な製品”と”大きな利益率”というのは同じくらいに重要だったのだ。これが分岐点となり、当時スカリーをAppleに入れることに成功したジョブズも、結局Macintoshの発展の方向性についてスカリーと対立を深めることになる。
スカリーとジョブズは二人でそれぞれ別々に取締役会にレポートを提出し、ジョブズはAppleの取締役会からMacintosh部門から離れることを要求された。ジョブズは仕事を外されるという曲面を受け入れがたく、結局Appleを去ることになる(スカリーは最近、ジョブズを追い出したわけではないと語っている)。このビジネス理念の影の戦いで、スカリーとジョブズの関係には永遠の溝ができてしまった。スカリーはこう語っている。
私と彼は1週間に7日一緒に仕事をしていた。ビジネスパートナーとしてだけではなく、本当に仲のいい友達だったんだ。
彼はずっと私を許さなかった。私たちの友情は修復されることはなかった。このことを思い出すたびに、何となく遺憾に感じる。私が大きな間違いを犯してしまったことを。
ジョブズに踏み台にされた男
ギル・アメリオ、1996年〜1997年在籍、CEO。
Appleが一艘の船だったとしたら、1985年にはジョブズが水の中に放り出され、1996年にアメリオを船頭として迎え入れたことになる。しかしこのアメリオはジョブズが再びAppleという船に戻るための”ロープ”の役割を果たすことになる。アメリオはかつてナショナルセミコンダクターが赤字になったときにトップに任命され、同社を危機から救ったことで有名になった。そして運営資金があと3ヶ月しかなくなって倒産寸前だったAppleが、100万ドルという年俸でアメリオに白羽の矢を立て、もう一度”起死回生”を演じてもらおうとしたのだった。
アメリオがAppleのCEOになったとき、クズ製品に溢れ、製品アップデートも遅滞し、財務状況も最悪で、Appleはコンピュータの新しいOSによって業務の起死回生を狙っていた。アメリオは就任後、様々な手を打った。まず従業員を3分の1リストラし、Coplandシステムの開発プロジェクトを呈し。そして自身がMac OS 8の開発の管理監督を行った。問題は当時のAppleは開発の能力に欠けていたことだった。そこでアメリオはどこか一社を買収することで新システムを完成させようとしたのだ。最終的には彼はジョブズが率いていたNeXTを4.29億ドルで買収し、ジョブズを顧問という形でAppleに復帰させ、Appleという船のロープを掴ませたのだった。
アメリオは当然その時は思いもよらなかっただろう。ジョブズの復帰が、結局自分の首を絞めるということを。ジョブズはAppleの株価を抑えたり、取締役会を扇動するなどの手段でアメリオをAppleから追い出し、自らがCEOの地位に返り咲き、Appleの決定権を握ることになる。
億万長者にあと一歩で届かなかった悲劇の人
ロナルド・ウェイン(ロン・ウェイン)、1976年在籍。Apple創業者の一人。2300ドルでApple全体の10%の持ち株を売った男。
ウェインはAppleの3人目の創始者で、持株比率は10%だった。二人のスティーブが45%ずつ持っていたのだ。このような持株比率構成によって、ウェインは自然と”調整役”という役割になっていく。つまり2人の大株主の意見が異なったときに、彼の投票が最終的な決定力を持ったのだ。しかし、ウェインは株を持ってから12日後に後悔の念が生まれ、まだ若かった二人のスティーブがいいとは思えなくなってしまったのだった。そして800ドルで自分の持株、10%分を売却、そしてそれ以外に1500ドルの補償を受け取り、Appleの全ての権利を放棄した。
今日のAppleの市場価値は5,833億米ドル。もしあのときそんなことをしていなければ彼は今頃。。
面白いのは、ウェインははっきりと、ウェインにとってこれが唯一の投資の失敗ではないことをカミングアウトしていることだ。
私はこの人生で少なくとも6回失敗している。世界のしっぽを掴んだと感じて、”この発明が私を大成功に導いてくれる”と感じたんだ。でもその6回で全部ダメになった。
記事は以上。
(記事情報元:iFanr)