Appleの発表イベントは真似できても、ジョブズの”孤独”は学べない

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最近のスマホなどの新製品発表イベントがみんな同じような感じで飽き飽きしていないだろうか?あの素晴らしいAppleのスティーブ・ジョブズのドキドキする新製品発表イベントの、本当の極意は何だったのだろうか?中国のテック系メディアiFanrが深い内容の文章を出していたので翻訳してご紹介したい(中国人にしかわからないようなローカルネタは削る、見出しをつけて読みやすくするなどの意訳をしている)。

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ショー化する発表イベント、起業家がまるで役者に

最近ネットワーク起業家などが、ちょっと有名になってくると、ビジネスの舞台でまるでプロの役者かのような立ち回りをすることがある。インターネット起業家の役者気質はいったいどこから来るのだろうか?それは「浮ついた躁状態」にあるのではないだろうか。資本が人を浮つかせ、ちりばめられた情報が人を躁状態にする。細かいことをいえばその原因は無数にある。そのうち、”xx発表イベント”が一種のアート形式のようなものとなり、浮ついた躁状態となる最も大きな要因となる。そしてその浮ついた発表イベントは、スマートフォン業界の右に出る者はいないかもしれない。

発表イベント上で、スマートフォンの放熱効果はロケットなど宇宙技術と比較され、単なる鋼板はアートと結びつけられ、まるで死人にさえ休む暇を与えないほどの勢いでそういった美辞麗句が次々と打ち出される。とあるメーカーがこれをやったとしたら、もちろんその瞬間は多くの人を楽しませることができるだろう。しかしそのメーカーがその”誇張”だけを自分の本分としたら。。途端にそれはつまらないものになる。

今日の発表イベントでは、1人または2人がステージに立って、製品について深いところまで解説するというのが一種の「広告形式」として確立している。そこには多くの落語や漫才などお笑いに関する手法や、パワーポイント(PPT)アート、そして照明効果などのあまたの手法が用いられ、21世紀の広告アートの最高峰とされているほどだ。

 

ノキアからAppleへ

Apple以前の時代で印象的だったのは、2006年のノキア(NOKIA)の新製品発表イベントとされている。現在ノキアの携帯電話はこの世からなくなってしまったが、当時の携帯電話の製品発表イベントではまるで一万トンの花で埋め尽くされたような”虚栄”の光が世界を照らしており、特にそれが大中華圏では大きく花開いていた。しかし今日のスマートフォン発表イベントの模範はもはやノキアではない。その模範となっているのは、間違いなくあのAppleの共同創業者、スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)のプレゼンだ。

2007年のiPhone初代も衝撃的だったが、発売されたのが北米など限られた地域だけだったため、そこまで世界中の話題にならなかった。iPhoneの最も輝いたのは日本でも発売が開始されたiPhone 3Gだったといえるだろう。あのプラスチックのカーブを描いた背面と、正面はたった1つのボタンという、一見とても変な外観のスマートフォンだった。当時は北京オリンピックが行われた2008年で、ノキアはその年に4.8億台もの携帯電話を売り上げていて、Appleはその年にはたった1000万台ちょっとしかiPhoneを売ることができなかった。もし今日、4.8億台の携帯電話の出荷量といえばとてつもないことだ。Appleの今年のiPhoneの出荷量でも2億台ちょっとで、中国のファーウェイ(HUAWEI)でも1億ちょっと、シャオミ(小米、XIAOMI)でも1億台程度とみられている。ノキアの2008年の出荷台数は、今のこの3社の総計よりも多かったのだ。

 

ノキア帝国を打ち破ったApple

データは単に参考として出しただけだが、言いたかったのはジョブズがあの年に作りだしたiPhoneが、ノキアのSymbian OS帝国を打ち崩したということだ。その難しさといったら、今日のサムスン(SAMSUNG)、ファーウェイ、シャオミが世界で牛耳っているAndroid帝国か、はたまたAppleのiOS帝国を打ち破るのと等しいかそれ以上だったのだ。

想像してみてほしい。今、ここに新しい会社が突然現れて1つのスマートフォンを作ったとして、それが数年後にAppleを完膚なきまでにたたきのめしたとしたら。。そんなことはとても信じられないだろう!でも、Appleはそうやってノキアを完全に沈没させたのだ。まさに、ノキアはちょっと油断している間に自分の城を全て焼かれ、そして自身も灰や煙となってどこかに飛んで行ってしまったのだ。

 

スティーブ・ジョブズのプレゼンテーション

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製品について語るとき、ジョブズの身体からは一種の独特な魅力があふれ出す。彼が口を開く前に、あのトレードマークとなったISSEY MIYAKEのタートルネックシャツとリーバイスの501ジーンズとnew balanceの992を身に付けてステージにあがり、ディープブルーのPPTを背にしてステージに立つだけで、人々に既に「すごい」と思わせたのだ。見ている人はみな、「この人は今日これから、いったいどんなすごいモノを私たちに見せてくれるのだろう」と期待する。そして彼は自身のパッションを抑え込みつつ、フレッシュなデバイスを少しずつ紹介し、毎回の紹介毎に何かを”新しくもう一度定義”したあと、2秒ほど止まると、観客席からはとてつもない熱烈な拍手と歓声が爆発するのだ。ある時は観客の興奮が収まらない中、ジョブズは微笑みながら拍手が止まるのを待ちつつ、自分の手の中のデバイスを紹介したりする。そして最後の最後のあの”One more thing…”はまさに誰にでも真似された方法で、2011年までは誰もがこの言葉を待っていた。しかし2015年の今となってはもう既に使い古されてカビが生えてしまっている。

 

ジョブズの本当のすごさとは

製品のプレゼンテーションはジョブズが持って生まれた一種の特徴で、まるで誰にも真似できないような超能力でもある。しかし実はそれはジョブズの最もすごいところではない。ジョブズが天をも打ち砕くことができたのは、彼が最初から最後まで自分の製品をまるで自分が深く愛している子供のように扱っていたからだ。そう、本当に徹頭徹尾、熱愛しているのだ。よいプロダクトを作る人は、自分のプロダクトを深く愛している。木工職人が自分が作った椅子を大事にするように、また一流の料理人が自分が作りだした一皿の料理に深く魅せられるように。しかし難しいのは「初めから終わりまで」を本当に徹底することだ。ジョブズがもし木工職人だったら、彼は自分の作りだした椅子を深く愛するだろう。もしそれが誰にも見向きもされなくなった木片で作られていても。ジョブズがもし料理人だったとしたら、彼は自分の作りだした料理を深く愛するだろう。もしそれが残り物となって、ブタのエサとして養豚場に送られたとしても。

なぜそこまでモノを愛することが出来たのだろうか?ジョブズの伝記はこう伝えている。彼は完璧主義者だったと。しかし、本当にそれだけだったのだろうか?ジョブズは、実は孤独で自己陶酔型のアーティストだったのではないだろうか。自己陶酔は孤独な人がデビューするきっかけとなり、そして自己陶酔が極限に至ったとき、孤独なアートの才能が究極に至るのだろう。ジョブズは自らの心血をモノに注ぐと共に、自らの孤独な魂をモノに注入したのではないだろうか。もしジョブズが孤独な人でなかったら、あのレベルまでいかなかったに違いない。

 

本当の”孤独”とは、”孤独”な人の生き方とは

なお、この意味での”孤独”の反対語は群れをなす、ではなく、”平凡”だ。

だから、この意味での孤独は1人で部屋の中に死ぬほど引きこもることでもなく、友達とご飯に行かないことでもなく、配偶者と映画を見に行かないことでもない。この孤独は心の中の状態を表している。友達とご飯を食べていても、恋人や配偶者と映画を見ていても、相手に自分の本当の心の中を伝えることができない、それこそが孤独なのだ。普通の人が毎日考えているのは、どうやって他人と仲良くしていこう、ということだ。しかし孤独な人は、どうやって自分と仲良くなろうか、ということを毎日考えている。試してみればわかるが、後者の方がとても難しい。もし他人と上手く付き合いたくて、少し手抜きしたいなら、その時や場面に合わせた仮面をかぶって軽々しく応対していればいい。しかし自分と向き合ったら、そんな仮面は一切通用しない。なぜなら、あなたは自分自身を観察するためには、自分の目だけを使っても無理というより、目を使う必要もないからだ。

孤独な人は明晰で、敏感で、自己中心的で、変わりやすく、これらはどうしても情緒を不安定にさせる。なんとか処置をしないと大事になり、精神的・心理的な健康を損なうこともある。それらの情緒よりも大きな愛を自分に注ぎ込み、まるで大きな烈火が一面の氷原を溶かすようにすることによって、冷たい氷原の深い奥底にいる孤独な自我を救い出せるのだ。自我と共にいる状態は、自ら孤高の士をもって任ずるのと非常に近しいものがある。そして孤高の士をもって任ずるためには、自我に対する熱狂的な愛と、事物を追求する鉄の信仰を持たなければならないのだ。

 

誰もジョブズの”孤独”は真似できない

Einstein-Quotes

“孤独”な人は、魔物に魂を売ったかのようにクレイジーにならなければ、生きていくことができないのだ。

多くの人は、発表イベントを研究し尽くし、学習し尽くした。しかしジョブズの”孤独”については研究も学習もできていないようだ。生まれながらに孤独な人は学ぼうとしない。生まれながらに平凡な人ほど学ぼうとするのだ。学べないことは学んでも仕方がない。しかし恐ろしいのは多くのメーカーがまだAppleを模範としてそれを捨てきれないことで、左手でAppleを攻撃しつつ右手ではAppleを観察して真似して、それをやることでインターネット上でなんとか人々の目に一刻でも長い間止まりたいと考えていることだ。しかし、資本利益の点でいえば、Appleをほんの少しだけ学べば事足りる。現在のスマートフォン業界では、”iPhoneをちょっとだけ真似たり話題に出せば、自社のスマートフォンが1000台多く売れる”という業界の共通認識のようなものがある。スマートフォンの製造販売は、修行でも、ましては不老不死を求めるものでもない。少々名前が売れて、お金が稼げている人がいれば、世俗の基準で言えば誰がその人がうまくいっていないと言えようか?

もし自分でコントロールできれば、”孤独”は一種の希少な、そして完璧に近づいた状態ともいえる。それが事業であろうと、個人の修養であろうとも。

 

正常であること、平凡であることから抜け出すこととは

もしジョブズの孤独や自己陶酔のイメージから抜け出して、21世紀の平凡な人類の正常さの基準といえば、それはもしかしたら「楽しい混沌」なのかもしれない。ヘミングウェイの『日はまた昇る』(“The Sun Also Rises”, 1926年)の中で描かれていたフランスのパリと、中で描かれた主人公は、新聞でニュースを書く以外に、友達と酒を飲むのが日常だ。いわゆる、ロストジェネレーション(自堕落な世代)と呼ばれた人達のことだ。デートしたり、出会いがあったり、気持ちを打ち明けたり、何か自分の中からわき上がってきたら、ともかく一杯飲まないと気が済まない。カフェ、レストラン、バー、ディスコ、家の中、どんなところでも杯を挙げる。そして彼らがそれほどに多くの酒を飲むのを見て、一つの道理を悟るのだ。全ての人が楽しんでいるのは、周りに合わせたものではなく、本当にその中で楽しんでいるのだ。ただ、ごく少数の人の特別な場合と特別な時期を除いては。。例えばロバート・コーンとブレット・アシュリーが一緒に出かけたときなど。それ以外の人達は、ただ”正常に”操り人形のワイヤーに繋がれているに過ぎないのだ。

 

2015年、欲望が簡単に満たされる時代

ネットショッピングで物欲が満たされ、ネットの出会いサイトでは色欲が満たされ、ネットでの評価サイトなどで食欲や遊びに関する欲も満たされる。2015年、我々は既に欲望が簡単に満足される年代に生きている。満足の速さも質も、数年前に比べ遥かに進んでいて、前世紀とは全く比べることができないほど発展した。欲望が満たされることは幸福なことだが、欲望が簡単に満たされる時、本当に快感は得られるのだろうか?

新製品発表イベントが多すぎて、発表されるものが俗なものになり、本来は製品を紹介するイベントが、起業家が役者に扮して何かを演じるショーになってしまったら、そこに意義はあるだろうか?

 

画蛇添足 One more thing…(すみませんこれいつも使ってます。。)

欲望が簡単に満たされる時代を作ってきた立役者がAppleであったりもする。それまで本当に不便だったものを一気に便利にしてくれるもの、それがイノベーションだからだ。Appleはそれを繰り返してきた。では、今のAppleはどうだろうか?

“孤独”な人のインスピレーション、今巷に溢れる製品に足りないものはそれかもしれない。

もしかしたら、ポストジョブズ時代の今のAppleにも。。?

▼ジョブズのプレゼン技術や生い立ちについてはこれで学べるかも。

記事は以上。

(記事情報元:iFanr

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