天才と”クソ野郎”の結合体、それがスティーブ・ジョブズ
「天才とクソ野郎の結合体で、感情のコントロールができず怒りやすく、私利私欲に溢れ、家庭や友達には怠慢だった」伝記本の『スティーブ・ジョブズ』を読むと、そんなスティーブ・ジョブズの暗黒面が強調されているような気がする。この伝記本はスティーブ・ジョブズ本人へのインタビューも含め、かなり写実的に描かれたが、Appleの幹部やジョブズの家族や周辺の友人達からは快く受け入れられていないようだ。
その後、『Becoming Steve Jobs』という伝記本が登場し、こちらはAppleの従業員やスティーブ・ジョブズに近しかった人から高い評価を得ている。しかしこの後者の伝記本の中のジョブズも、伝統的な意味での”完璧な経営者”ではなかった。
「彼はドラッグをやり、しょっちゅう裸足で道を歩き、ボロボロのジーンズを履き、コミューン的な共同生活を好み、仏教(禅宗)を信奉し、自分が何でも知っていると考えて傲慢で、極度に無礼な態度を取っていた」彼はいわゆる”完璧な経営者”が一般の世間に対してみせるべき風格をもっていなかった。年齢を重ねるにつれて、ジョブズも少しずつ人間性の中でも温和な一面を見せるようになっていったが、彼の上記の”特徴”は消え去ったわけではなく、ジョブズは自らをコントロールすることを学んだだけだったのだ。
カウンターカルチャー、ヒッピー文化とコンピュータブームの中で育ったジョブズ
1967年、アメリカではヒッピー運動が全盛期で、カウンターカルチャーとコンピュータブームもその後に訪れた。20世紀の60年代と70年代にシリコンバレーで育ったジョブズは、この2つが織り交ざった文化の中にいた。
ジョブズの成長の軌跡は、アメリカの社会に非常に大きな影響をもたらしたカウンターカルチャーと同様に、最初は非常に極端で、最終的には温和になった。カウンターカルチャーの特徴ともいえるヒッピー精神も、ジョブズ自身が遺憾なく発揮していた。ジョブズがAppleを世界最高峰に導くその過程で、偉大な成果とヒッピー精神とカウンターカルチャーは多くの重なり合う接点を持っていた。カウンターカルチャーは、ジョブズによるAppleの大復活劇と大躍進に非常に重要な作用をもたらしたのだ。
ジョブズ復帰後のAppleは腐りかけていた
1997年、自分が創業したAppleを長年離れていたジョブズは、その間に立ち上げていた自身のNeXT社がAppleに買収されるという形で会社に復帰したが、当時のAppleはもう腐りかけた屋台のようなものだった。1996年9月27日〜1997年9月26日という会計年度で、Appleの損失は8.16億ドルもの赤字をだし、年間の売上はたった71億ドルしかなかった。売上の縮小が投資家の信頼を失い、Appleの株価は3分の2まで落ち込んでいた。ジョブズが本当にAppleを起死回生できるのか、当時は多くの人が疑っていた。
ジョブズへの疑念は決して根拠のないものではなかった。なぜなら当時Appleの業務データは競争相手と比べても、ほぼ完全にマーケットから淘汰されるほどのレベルだったからだ。20世紀の90年代はパーソナルコンピュータの発展のピークを迎えた時期で、1997年にはPCの販売台数は8000万台にもなっていて、前年比14%も成長していた。しかし当時のAppleのコア製品であるMacintoshの販売台数は前年比27%も落ち込み、市場シェアはたった3.6%しかなかったのだ。
当時迷走していたMacintosh製品ライン
MacintoshこそがジョブズがAppleを追われる前に自ら手がけた製品だった。最初のMacintoshがリリースされた1984年、このコンピュータのUIのアイコン化画面と直感的な操作ロジックは、瞬く間にPC市場の模範とされた。
しかし1997年には、外観やUIに殆ど進化がなかったMacintoshは明らかに古くさく、その上価格は異常に高く、時代にそぐわないものになっており、更にApple自身には新しいOSを作り出す技術力さえなかった。当時の営業戦略もまさに災難で、営業部隊は様々な種類のMacintoshの受注を受けていて、各種の特殊機能を持った機種が細分化した市場に受け入れられると考えていた。しかし市場には様々な型番のMacintoshに溢れ、また違う型番のMacintoshの性能差は非常に微妙で、その上部品や組立方法はそれぞれ別の方法がとられていて、それぞれの型番にはそれぞれまた別の営業チームが担当して各自独自の製品改良などをしていたため、しょっちゅう社内でも矛盾した情報が飛び交うほどだった。
Macintosh以外も最悪の状況に
Macintosh以外にも、Appleの製品ラインは複雑化し、迷走していた。パームトップコンピュータのNewton、eMateコンピュータ、プリンタ、ゲーム機のPipin@。。製品群だけは百花繚乱だったが、業績がそれをカバーできていなかった。1997年、Appleは1000万台を超える端末の在庫を抱えていたのだ。
つまり、1997年のAppleは、これまで直面したことのない危機に陥っていたのだった。
ジョブズの復帰後の最初の仕事、”Think different.”
ジョブズが復帰してまずやったことは、あの広告に大金をはたいて撮影したことだ。当時会社の財政は逼迫し、大リストラを実行している中で、このジョブズの挙動はなかなか理解されないものだった。この広告宣伝費には1億ドルもの資金が投じられたからだ。
どんな広告が、ジョブズによって緊迫する財政下でそれほどの大金を出させるほどのものだったのか?その広告は後にエミー賞を受賞する”Think different.”だった。この広告では17名のユニークで、クリエイティブに溢れた天才達の写真を切り替えることで成り立っているもので、そこには刺激的な文言が散りばめられていた。正に、Appleの”カウンターカルチャー”の理念がほとばしったような広告だった。
特に最後の一文こそが、正にジョブズのカウンターカルチャーを表しているといえるだろう。「彼らは他の人から見たらクレイジーに見えたかもしれないが、しかし彼らは間違いなく天才だった。なぜなら彼らはそのクレイジーで世界を変えたのだから」
この1億ドルをかけた広告に、ジョブズは自ら参加した。広告の中で使われる一字一句の編集・訂正から、全ての過程においてジョブズ自らが関わったのだ。苦境にあえぐ会社のCEOが広告費に巨大な資本を投じるなど、殆ど考えられないことではないだろうか。そしてこの広告の制作過程で、ジョブズは彼が一生のうち殆ど見せたことのない謙遜の態度まで表したのだ。広告のナレーションは、制作者はかなり頑固にジョブズ本人に朗読するよう要求し、まずジョブズが最初のバージョンの録音をした。しかし最後になってジョブズは考えを改め、リチャード・ドレイファスにそのナレーションを任せたのだった。「もし広告に私の録音したバージョンが流れたら、そこには私の烙印が押されてしまう。しかしこの広告は私に関するものじゃなくて、会社のものだからね」とジョブズは言ったという。
果たして”Think different”の広告の効果は絶大で、Appleの従業員は再度自信を取り戻し、また多くの人の視線をひきつけ、Appleに新製品の研究開発の時間を与えようではないか、という雰囲気を作り出した。
改革第二弾は社内の仕組みの調整
そしてジョブズは間髪を入れずにAppleの改革の第二弾を展開する。それは社内部門の仕組みの調整だった。この調整は社内の隅々にまで及んだ。この大ナタを振るう大リストラの後、Appleには強大かつ超高効率のコアな幹部チームができあがった。
その頃、マイクロソフトの(Microsoft)のビル・ゲイツこそがシリコンバレーの新しい成功者で、Appleはもう崖っぷちで死にかけているとみられていた。しかしジョブズのApple改革はかつての色を失わないほどパワーに満ちあふれていた。彼らの手中には、まだ新しいAppleを象徴するべくパッションに溢れた新製品がなかったとはいえ。
ジョニー・アイブの発掘が新製品のデザインを実現
しかしその新製品の開発にもがくのも、ジョブズがジョニー・アイブを社内で発掘するまでだった。このデザイン実験室に埋もれて苦しむ青年を。「私はジョブズが実験室に来た時、私は絶対クビになると思っていました。なぜなら私たちが以前デザインした製品はどれも大したことがなかったからです」これがジョニー・アイブがジョブズと実験室で会った時の感想だった。
しかし事実は皆さんご存じの通り完全に反対で、スティーブは実験室の中の製品については全く興味を示さなかったが、アイブに対する印象は深かったようだ。なぜなら「この謙虚な性格の男が、自身の製品を紹介する時には我を忘れたかのように夢中になっていたんだ。彼は非常にシンプルでクリアな言葉で複雑なアイデアを説明することができた。彼の才能が浪費されていると感じた」とジョブズは当時を振り返って感慨深げに語っていた。
【iMac】で復活を強烈に印象づける
その後、ジョニー・アイブがデザインし、ジョブズがApple復帰後初めてリリースした製品があの【iMac】だった。この青の丸くぷっくり太ったマシンは、まるでおもちゃのようでコンピュータのようには見えなかった。多くの評論家はこのiMacについては一瞥もくれなかった。なぜならライバル製品に比べて速度も性能も何らいいところがなかったからだ。しかもこの外観さえも評論家には受け入れられなかった。
しかし事実が証明しているとおり、それらの評論家は間違っていた。iMacの見た目には行きすぎたようなデザイン画、逆にこの【iMac】が”道を外れ、道に反する”という態度を表していたのだ。人とは全く違う、あのAppleが帰ってきた!【iMac】は、パーソナルコンピュータがあくまで”個人”のためのツールで、私たちが必要としているのは”個性”で、”バカな”他人と全く同じなものではない、ということを我々に伝えたのだった。【iMac】がリリースされて1年の間、同製品は200万台を売り上げた。これはAppleが長年の間飛ばすことができなかった大ヒットだったのだ。
そして【iMac】の成功が、”人とは違うひと味違ったデザイン”というAppleの復活のキーワードとなり、またそのことがジョブズの自信を更に強固なものにしたのだった。
その後のiPodとiPhoneの成功がAppleを世界一市場価値の高い企業に
その後立て続けに登場した【iBook】や【PowerBook】も、美しく精巧なデザインと優秀な品質な製品となった。Appleはたった3年で、またコンピュータ産業界の中で最もクリエイティブに富んだ会社という地位を取り戻したのだった。
そしてその後の【iPod】と【iPhone】の成功が、Appleを世界で最も市場価値の高いテック企業へと飛翔させた。ジョブズの偉大さと彼の起こした奇跡については、もうここで詳しく書く必要はないだろう。
ジョブズの人と違ったところはやはりカウンターカルチャーの精神
ジョブズが人と違ったところは、彼は需要を洞察し見極め、人文科学的な角度で需要を生み出し、人々の需要を満たすのではなく、人々のために需要を作り出し、しかもそこにはまったら抜け出せないような需要を作り上げるという能力を持っていたことだった。”他人とは違う”という信念の支えが、彼が追い求めた現実の世界を変えることに繋がった。これこそがカウンターカルチャーで、彼の性格の中にある”叛逆”精神の種となったのだ。
Appleの信条にはカウンターカルチャーの精神が流れている
“平凡に満足せず、卓越を求める”これこそがAppleの信条だ。Appleの今の素晴らしい輝きの中に、Appleの”カルチャー”と信仰の力をみることができる。もしカウンターカルチャーの影響がなかったら、ジョブズは”クソ野郎”と天才の結合体になることはなく、またAppleは今のようにはなっていなかっただろう。
ジョブズの功績は、Appleにカウンターカルチャーの精神を吹き込んだこと
既にiPhoneは7代目となり、Appleの新社屋”宇宙船(Spaceship)”もほぼ竣工している。Appleは現在のCEO、ティム・クック(Tim Cook)が率いてまだまだ巨大な資本を維持している(というより更に成長している)。かつて、多くの人がジョブズがいないAppleはどうなってしまうのだろうと心配した。Appleの栄枯盛衰はこの”クレイジーな男”の一挙手一投足と緊密に関係していると多くの人が信じていたからだ。そしてこの”クレイジーな男”はこの世を去って5年が経った。彼はAppleのブランドイメージを確立させ、Appleにカウンターカルチャーの精神を吹き込んだ。正に金銭では計れないほどの財産を会社にもたらしたのだ。
時間がどれだけ流れようと、無形の信仰はこれからも彼に対して注がれ、また時間が経つにつれその信仰は成長していくだろう。
記事は以上。
(記事情報元:WeiPhone)