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32枚の写真で振り返る、スティーブ・ジョブズ復帰前のAppleの歩み

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誰もが知っている通り、スティーブ・ジョブズがAppleに復帰後、同社は伝説的な復活を遂げ、正に起死回生という言葉を体現した。しかしAppleも最初は3人だけの会社で、事務所もガレージにあったことを見たことがある人はどれだけいるだろうか。その後AppleはIBMやMicrosoftといったテック会社の巨人と混戦を繰り広げ、にっちもさっちもいかなくなり、絶望の境地に立たされたこともあった。中国のメディアWeiPhoneの記事の記事を元に、32枚の古い写真で”世界を征服”する前のAppleがたどった、平坦ではない長い歴史を振り返ってみたい。

1. スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックによるAppleの起業

1976年4月1日、【スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)】と【スティーブ・ウォズニアック(Steve Wozniak、Woz、以下ウォズ)】はカリフォルニア州ロスアルトスで、現在のAppleの前身となる【Apple Computer(アップルコンピュータ)】を設立した。

2. Appleのもう1人の幻の共同創業者、ロナルド・ウェイン

Apple Computerのもう一人の幻の共同創業者【ロナルド・ウェイン(Ronald Wayne)】。ジョブズが彼を会社に引き入れたのは、自分とウォズに業務に関する指導を受けるためだったといわれている。しかし会社が正式に登記される前にウェインは去ってしまった。そして800ドルの小切手が、彼のApple Computerでの株式の代わりとして渡された。今考えると本当に大損だ!

3. Apple Computerの最初のロゴ

Apple Computerの最初のロゴも、上のウェインの手によるものだった。今見るとあまりに複雑なデザインだ。

4. Apple Computerの最初の事務所

Appleの最初の事務所は、ジョブズの父母(正確には養父母)の家のガレージだった。

5. Apple I

Appleの最初の製品は【Apple I】だった。これまでのコンピュータユーザは全て専門知識を身につけたプロだったのに対し、この製品のターゲットはアマチュアユーザだった。ただ実際の製品は単なるロジックボードと、プロセッサとメモリのみだった。買った人は自分で外側のケースを取り付け、キーボードやディスプレイを別途用意する必要があった。上の写真の筐体もユーザが作ったもの。売価は666.66米ドルで、本当に安くなかった。

6. Apple Iの設計図

Apple Iはウォズが一人で開発したもので、製造も彼一人の手で行われた。この写真はウォズの手作りの設計図だ。

7. マイク・マークラ

 

ジョブズの役割は、主に会社のために潜在的な投資者を探すことだった。最終的にジョブズは【マイク・マークラ(Mike Markkula、写真右)】から25万米ドルを引き出し、このエンジェル投資家をゲットする。マークラはApple Computerの3人目のメンバーとなり、会社の3分の1の株を持った。

8. 法人登記、マイケル・スコットがCEOに

マイク・マークラの指導の下、Apple Computerは1977年に正式に法人登記された。そして更にマークラの提案のもと、【マイケル・スコット(Michael Scott)】がApple Computerの代表兼CEOとなった。当時彼らはジョブズがまだ若すぎる上に散漫すぎて、CEOに向いていないと考えていたのだ。

9. Apple II

1977年にAppleの2つ目の製品、【Apple II】が誕生した。これも設計は基本的に全てウォズが行った。このウォズが創り出したパーソナルコンピュータが、あっという間に世界を席巻することになる。このApple IIの成功が、後のAppleの大成功に繋がっていく。

10. VisiCalc

Apple IIのキラーアプリが、【VisiCalc】だった。このデジタル表計算ソフトウェアのおかげで、Apple IIは当時市場シェアのトップだったTandyとCommodoreを抜いてトップに躍り出た。そしてVisiCalcがあったからこそ、Appleは企業ユーザにApple IIを売ることができたのだった。

11. 会社の拡大

Apple IIの成功により、1978年にApple Computerは本当の意味での事務所を持ち、多くの従業員を抱えるようになった。またApple IIの製造ラインもできた。だいたいこの頃から、一部の初期のApple従業員から、あまりに細かいことに拘りすぎどんな小さいミスをも責め立てるジョブズに対して不満が出ていたという。

12. ゼロックス(Xerox)のパロアルト研究所

ゼロックスのパロアルト研究所(Xerox PARC=Xerox Palo Alto Research Center)のテクノロジーは世界中に轟いていた。レーザープリンタ、マウス、そしてイーサネット(Ethernet)等は全てこの研究所の実験室から生まれたものだ。1979年、Appleのジョブズを含む従業員達がこの実験室を3日間参観することを許可された。交換条件として、ゼロックスは1株10ドルの価格でAppleの10万株を手に入れた。

13. Apple III

1980年にAppleがリリースした【Apple III】は企業向けコンピュータで、ますます発展するIBMやマイクロソフトと競走するために作られたとされた。しかし実はこのApple IIIは見せかけのようなもので、ゼロックスのパロアルト研究所を訪れたジョブズはこれとは違う考え方をするようになる。

14. Lisa

ゼロックス訪問でジョブズは、コンピュータの未来とアイコンを使ったUIが密接な関係にあるということに思い至った。Appleの新製品【Lisa】は、パーソナルコンピュータの中にGUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェイス)を実現し話題となった。しかしApple Computerの社内闘争が激化したため、ジョブズはこのプロジェクトから外されてしまう。1983年にLisaはリリースされたが、残念ながら価格が高すぎ、サポートするソフトウェアも多くなく、販売台数もふるわなかった。

15. 初代Macintosh

ジョブズは2つ目のプロジェクトを手がけることになる。それが今のMacの原型、【Apple Macintosh】だった。グラフィックデザインの専門家達にこのコンピュータは非常に歓迎された。ただ価格が驚くほど高かった。

16. ジョン・スカリー

1983年に初代Macintoshがリリースされた後、Appleは新しいCEOを迎えた。ペプシ・コーラの社長で、同社を立て直した立役者、ジョン・スカリー(John Sculley)だ。ジョブズはあの有名な「このまま一生、砂糖水を売り続けるのか、それとも私と一緒に世界を変えたいか?(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to come with me and change the world?)」という言葉でスカリーを招き入れることに成功した。しかしジョブズは後に自分で招き入れたスカリーに会社を追い出されることになる。

17. 1984のCM

1984年にリリースされた”1984″のCMは、Apple Computerを誰もが知っている会社にした広告だった。Appleはこの広告に150万ドルを投資し、この広告は1984年1月22日のアメリカのスーパーボウルの試合のテレビ中継の時に1回放映されただけだった。

18. スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツとの関係に亀裂が

この頃、ジョブズとマイクロソフトの創始者【ビル・ゲイツ(Bill Gates)】の関係にヒビが入ってきた。最初マイクロソフトはMacintoshのソフトウェアを開発することを快諾していたが、1983年にWindowsのプランが明るみに出ると、その計画はお蔵入りになってしまった。

19. LisaとMacintoshの失敗がジョブズとスカリーの溝を深める

Macintoshの販売実績は悪くなかったが、IBMという覇者の地位を動かすには足りなかった。そのことも、ジョブズと新CEOのスカリーとの間の摩擦を増やしていった。Macintoshチームの責任者としてジョブズは自分のやり方を貫いたのだ(海賊旗をあげたりもした)。しかしスカリーはLisaとMacintoshの失敗の後、Appleの未来の製品に対してより強い権限を掌握したいと考えた。

20. ジョブズ、アップルを追われNeXTを起業

1985年、ジョブズは社内で政変を起こして会社からスカリーを追い出そうとした。しかしApple Computerの取締役会はスカリーを守ることを選び、ジョブズから管理者としての職を全て奪ってしまった(名誉職としての会長職のみ残して)。怒ったジョブズはApple Computerを離れてNeXTを起業した(その後、ジョブズはAppleに辞表を送りつけた)。このNeXTでは主に先進的なワークステーションが開発され、ジョブズが会社の全権を掌握した。

21. もう一人の創業者、ウォズもAppleを去る

1985年、ウォズもジョブズと同じ頃にAppleを離れた。ウォズはAppleが間違った方向に行ったと批判し、所有している全てのAppleの株を売却した。

22. スカリーが全権掌握

ジョブズがAppleを離れた後、スカリーを遮るものは何もなくなった。スカリーが全権掌握した後、最初の頃は全てが順調にいっているように見えた。Appleは1991年にPowerBookとSystem 7(Mac OS 7)をリリースした。System 7はMacintosh OSを更にカラフルにし、このSystem 7をベースにしたOSは復帰後のジョブズがNeXTから持ち込んで2001年にリリースしたOS Xに淘汰されるまで続いた。

23. Newton(ニュートン)

 

90年代のAppleは新たな市場に向けて積極的に攻めたが、何1つとして成功しなかった。【Newton MessagePad(ニュートンメッセージパッド)】もそのうちの1つだ。

24. スカリー最大の過ち:System 7とPower PCに拘りすぎた

しかしスカリーの最大の過ちは、Appleの大量の時間と金を【System 7】とIBM/Motorolaの【Power PC】マイクロプロセッサとの整合性の上に割いてしまい、Intel(インテル)のプロセッサを選択しなかったことだ。当時多くのソフトウェアはインテルのプロセッサ用にプログラムコードが書かれていたにもかかわらずだ。

25. Windowsの成功

当時、マイクロソフトの影響力が少しずつ増していった時期だった。Macのソフトウェアの品質は良かったが、数量が限られていて選択肢が少なかった。またハードウェアもかなり値段が高かった。しかしマイクロソフトがリリースした【Windows 3.0】は、比較的安価なコンピュータ上にプリインストールすることができたのだ。そしてそれがその後の二社の大きな差を作っていくことになる。

26. ジョン・スカリーの失脚、マイケル・スピンドラーがCEOに

多くの失敗と、Power PCを選択したことでのあまりに大きい対価に、Appleの取締役会はとうとう堪忍袋の緒が切れた。ジョン・スカリーは失脚し、【マイケル・スピンドラー(Michael Spindler)】が後任となった。

27. スピンドラーの失敗とギル・アメリオのCEO就任

しかし元々スカリーのPower PCが間違っていたため、スピンドラーの後任事業も悲劇となった。1994年、初めてのPower PCが搭載されたMacintoshがリリースされたが、Appleには回復の兆しが見えなかった。そんな中、Windowsは引き続きますます発展していた。IBMとサン・マイクロシステムズ(Sun MicroSystems)とフィリップス(Philips)の買収交渉に失敗した後、Appleの取締役会は1996年にトップのすげ替えを決定し、【ギル・アメリオ(Gil Amelio)】がAppleの新しいCEOとなった。

28. Appleの低迷、ジョブズの復帰

アメリオがCEOになってからもAppleへの風あたりは強く、Appleの株価は12年で最低となった。最終的にアメリオは4.29億ドルでジョブズのNeXTを買収することを決定し、ジョブズをAppleに呼び戻すことにした。同年7月4日、ジョブズは取締役会の説得に成功し、彼はAppleの暫定CEOとなった。そしてアメリオはその1週間後に退職した。

29. Think Different

1997年、Appleの“Think Different”のCMが放映される。

30. ジョブズによるApple再建

ジョブズの指導の下、Appleは新たな発展期に入った。マイクロソフトとの関係を修復し、マイクロソフトもAppleに1.5億ドルの投資をした。

31. iMac、Mac OS X、そしてインテルのチップ採用

ジョブズはジョニー・アイブ(Jony Ive)にiMacのデザインを任せた。そしてこの一体型iMacは1998年に発売、大ヒットとなりAppleの復活を印象づけた。2001年、ジョブズはMac OS Xをリリース、System 7ベースのOS、OS 9の葬式を執り行った。そして2006年、AppleはとうとうインテルのCPUを採用する。

32. iPhoneの成功

しかしAppleにとって最大の成功は間違いなく2007年にリリースされたiPhoneだろう。

その後は誰もが知っているAppleの成功が続いている。

記事は以上。

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